はじめに このページでは、どうして私が倫理学の勉強するようになったのか、どうして倫理学というようなものにかかわるようになったのか、ということをお話ししようと思います。もしかしたら今のみなさんに何らかの参考になるかもしれませんし、また、私の講義を聞いていただく上で、何らかの問題提起になるかもしれない、と思うからです。
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第1章 胎動 私がみなさんよりも少し前の頃、つまり高校生の頃ですが、私にとっても大学受験の問題は避けて通れない切実な問題でした。しかし特に悩みの種だったのは、受験勉強の成績がどうであるかということよりも、むしろ、どうして大学に進学するのか、ということでした。義務教育ではないのだから、各自が自分で判断し選択することによって大学に進学していくはずだ。でも、人に尋ねると「みんなが行くから」とか、「大学に進学しないでどうする気なんだ」という答えが返ってくるだけです。人の判断と選択はそれはそれでよいだろう。しかし、自分自身の判断と選択はどうなのか。どう判断しどう選択して大学に進学しようとしているのだろうか。こういうことが切実な問題になっていたのでした。 私はこの問題を納得がいくまでじっくり考えてみようと思いました。そのため最初の受験の年、つまり高校3年生のときは、受験しないことにしました。この問題が納得いく仕方で決着し、大学に行くことに決心がついたら、そうしたら受験勉強を始めることにしよう、と考えました。どうして大学に進学するのかが明確でないままで大学に進学するのはナンセンスだと思ったからです。このことを考えるためには、受験勉強をしているようなヒマはないと思いました。 しかし、周囲の人たちは現役生が受験しないということを認めてくれませんでした。「大学で何をするかを考えるより、まず大学に入ることの方が先じゃないのか。大切なのは今どうするかだ。」「入学する前から入学後のことで悩むのはバカげている。入学できなかったらどうしようもないだろう。」、という進路指導の先生の声もありましたが、これは本末転倒したごまかしだと思いました。「受けてみなければ分からないじゃないか。受けるだけでいいから受けてみろ。」「受けるだけでいいんですね。」売り言葉に買い言葉。試験の答案はほとんで白紙でした。「こんな点数じゃ、何年浪人しても進学なんかできないぜ。」予備校にも通わないことにした私は、高校の卒業式後、人里離れた小さな山小屋に引き籠ってしまいました。
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第2章 生まれ出る苦しみ なぜ大学に行くのかという問いは、大学に行って何をするのか、卒業後何をするのか、というようにどんどん広がっていくわけですが、結局のところ、自分はどのように生きたらよいのか、というところに行き着いてしまうわけです。そしてこの問いについて考えるための前提として、私自身も含めて、私の周りのこの世界は一体どうなっているのか、ということまでもが切実な問題になってしまったわけです。 私は次のように考えました。過去にも同じようなことを考えて、悩んだ人がいるかもしれない。これまでの人たちはどのように考えたのだろうか。あるいは誰かが解答を与えてくれるかもしれない。とりあえず何でもよい、手近かな取っつきやすいところから始めてみよう。ということで、岩波文庫の近代日本文学、つまり緑の帯のシリーズを番号順に最初から読んでいくことにしました。はっきり覚えていませんが、たぶん二葉亭四迷あたりが最初だったのではないかと思います。受験勉強をしているとウソを言って、文庫本ばかり読んでいました。 そういう生活が1年近く続きました。そしてある寒い雪の日に思ったのです。世界はどうなっているのか、どのように生きたらよいのか、ということについて、これまでの人たちも、つまり偉いと言われているような人たちですら、もしかしたら分かっていなかったのではないか。分からないままに生きていたのではないか。 それからもう1つ。すべての時間をどんなに1つのことに充てようとしても、どうしてもそれを妨げるものがあること。つまり、食事や睡眠の時間をなくしてしまうことができないということ。これは当たり前のことのようですが、自分が「生きもの」であることの何よりの証拠なのです。そしてそれは、同時に自分が「死ぬもの」であることの動かない証拠でもあるわけです。そうか、自分は死につつあるのか。このことは、私にとって驚愕すべきことでした。それまで私は、漠然と「死」は「生」の向こう側にあるものとばかり思っていたからです。このことを踏まえない限り、生きていることにならないわけか、と思いました。 |
第3章 誕生 どのように生きたらいいのか実は誰も確実には分かっていないのではないか。というより、むしろ私が問いの立て方を間違っていたのかもしれません。私はどのように生きたらよいのか、という問いを立てるときに、おそらく私は、あなたはこのように生きなさい、とか、このように生きるべきだ、というような、私のための何らかの具体的な解答が与えられるものと期待していました。しかし、誰かにこのような解答を期待しても無駄だったわけで、そのような期待は裏切られてしまいました。どこかにあらかじめ答えがあって、それを探しあてさえすればよい、ということではなかったわけです。 私はどのように生きたらよいのか、という問いには誰も答えてくれない、つまり、他人をあてにしてもだめ、自分で答えを出す以外にはない、ということなのです。誰かに尋ねても答えは返ってこない、自分自身で考えて、自分で判断して選択するしかない、それでうまくいくこともあれば、うまくいかないこともある、たとえうまくいかなくても、それは自分の責任として引き受けるしかない、他人のせいにすることはできない、ということなのです。 そうと分かったところで、だからといって、どうもすぐには納得いく答えが出そうにない。じっくり考えてみたいのだったら、これから先、継続的に考え続けてみるしか仕方がないのではないだろうか。答えがまずあって、あとはそれに従っていくだけ、ということではないようだ。考え続けるための絶好の場所が大学なのではないか。そして大学院、……。大学進学の理由をじっくり考えてもすぐには充分納得いく解答が得られない、というまさにそのことが、私の場合には大学進学の理由になったわけです。 次の年、つまりいわゆる浪人1年目は、受験の準備が間に合わないということで受験しませんでした。このときは周囲も反対しませんでした。そしてさらにその次の年、大学の倫理学専攻に入学し、大学・大学院と倫理学の勉強をすることになったわけです。
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あとがき 日頃、私が授業で学生のみなさんにお話ししていることの背景には、みなさんと同じ年頃の私自身のこのような体験があります。おそらくみなさんの年頃には、私の場合と同じ様なことを思っている人があるかもしれません。自分はどう生きたらよいのかという問題は、おそらく切実な問いであるに違いありません。そういう問題意識が少しでもある人に、この「『私』の誕生」が何らかのお役に立つのではないかと思います。「自由」「責任」「良心」、とりわけ「自律」は、一人前の人間として誕生する際のキーワードです。そしてこれらは、倫理学の重要なテーマでもあるわけです。
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