人間は受身的に誕生します。文法的にも、日本語の「生まれる」は受身形です。英語ではbe born、ドイツ語ではgeboren werdenです。主体的に自分で選択して誕生する人間はいません。誕生後は、精神的にも経済的にも被扶養者として成長し、たとえば、就職を機に経済的に自立していくことになります。これと同様に、精神的にも自立していくわけですが、こちらの方は人さまざまでなかなか捉えにくいところがあります。しかし、たとえそうではあるにしても、人間の精神的なあり方もまた、受動的受身的なものから能動的主体的なものへと質的に転換していくことになります。まさに「第2の誕生」があるのです。 自覚的主体的に自分の人生を生きることができるのは、この「第2の誕生」以降ということになるでしょう。自分の人生には終わりがあること、つまり自分の死、について自覚を持つこと、この自覚がおそらく「第2の誕生」の契機かもしれません。『私』の死とはどのようなものなのでしょうか。 人の死に遭遇することがあります。その人は、ある時点まで生きていますが、その瞬間をむかえると、その時以降、存在が失われます。生前の業績が残ったり、身近だった人たちの心の中に生き続けることはありますが、少なくとも肉体的にも精神的にも消滅してしまいます。存在の消滅、それが死でしょう。そう考えると、日頃遭遇する死は、どこまでも他者の死でしかありません。当事者ではない他人が、その人の状態の変化を、こちら側の継続する時間軸の上から見ているわけです。 ところで、『私』の死は、このような他者の死と同様に考えることはできません。死をむかえた『私』にはもう存在がありませんから、自分のその状態を自覚することができません。つまり、『私』にとっては、他人が私の死と見ている私の状態(Tod 1)が存在しないわけです。『私』の死の後に『私』の死はありません。それにもかかわらず、『私』は『私』の死があることに気付いています。それは、いったいどこにあるのでしょうか。 むこうに側にないとすれば、こちら側にあるとしか考えられないでしょう。死は生のむこう側にではなくて、むしろ生と同じこちら側に、『私』の生の状態のあり方の1つとして(Tod 2)あることになります。『私』の死は、死につつある、というあり方で、生と同時に存在するわけです。死のない生を生きることはできません。このことは、驚愕に値することではあるにしても、しかし、恐れたり、悲しくなったり、忌み嫌ったりすることではありません。われわれの日常の生活のあり方そのものがそうなっている、ということなのです。 |
付 録―二人称の死― 『私』の死は、他人の死とはまったく異なった特徴をもっています。それを「一人称の死」と呼ぶなら、他人の死には、「二人称の死」と「三人称の死」があることになります。同じ他人の死でも、両者は大きく異なります。つまり、自分の家族や友人などの死は、テレビニュースや新聞記事で報道される他人の死をはるかに越える大きな影響を私に引き起こすからです。一人称の死はどこまでも思考の対象ですが、二人称の死はまさに実在の出来事です。受容したくないものであろうと、受容せざるを得ないものなのです。 |