0.「温泉」ってなに? |
1.『広辞苑』の説明 |
2.「温泉法」の規定 |
3.科学的な説明(1) |
4.科学的な説明(2) |
5.結局「温泉」ってなに? |
0.温泉ってなに? 旅行会社の団体ツアーや職場の慰労会で、有名な温泉地に出かけ、広い浴槽や露天風呂に入り、豪華料理を堪能して飲み明かす。そして「温泉に行ってきたぞ。よかったなあ」。これも温泉に違いはありません。日ごろのストレスが解消されて、人間関係の絆も深まり、それに何より温泉ですから、水道水の自宅のお風呂とは違う効果が期待できそうです。 しかし、本当にそうなのでしょうか。かつてのレジオネラ菌事件や温泉偽装問題は、温泉をめぐる複雑な事情を顕在化させました。温泉について納得のいく理解をした上で、自分自身で選択して本物の温泉に入りたい。そんな思いを果たすために、素人ながら温泉の本質を探究してみることにしました。ちょっと理屈っぽいけど、温泉ってなに? |
1.『広辞苑』の説明 「地熱のために平均気温以上に熱せられて湧き出る泉。多少の鉱物質を含み、浴用または飲用として医療効果を示す。硫黄泉・食塩泉・炭酸泉・鉄泉などがある」。『広辞苑』(第五版)は、日常的常識的な温泉の理解を提示しているように見えます。地面から湧き出るお湯が何らかの成分を含んでいて、それに入浴すると身体にいい効果があるに違いない。普通、温泉というのはこんなイメージでしょうか。でも、このイメージ通りの温泉に入るためには、実は入念なチェックが必要なのです。 『広辞苑』は温泉の項目にもう1つの意味を掲載しています。上に引用した@に加えて、Aとして「@を利用した浴場」を挙げています。つまり「温泉」という言葉には、@「湧き出る泉(=源泉)」、A「それを利用した浴場(=浴槽)」という2つの意味があるというわけです。温泉施設では浴場の浴槽に入りますから、通常は温泉という言葉をAの意味で用いていることになるのでしょうね。 ところで、『広辞苑』のこの2つの意味の区別は、本物の温泉を指向する場合にとても重要な視点を提供しています。つまり、同じ「温泉」でも「源泉のお湯」の場合と「浴槽のお湯」の場合とがあるわけで、両者は必ずしも同じではありません。例えば、ある成分を含み医療効果のある源泉も、その利用の仕方によっては、浴槽のお湯になったときに源泉の効果を期待できないこともあるからです。そして、この2つの区別によって、漠然と「浴槽のお湯」=「源泉のお湯」と思い込んでいた先入観に気付かされることになります。 源泉がどのような仕方で浴槽に利用されているか、これがポイントです。イメージ通りの温泉に入るためにチェックが必要になるのはこのためです。古来、「浴槽のお湯」=「源泉のお湯」という等式は当然の前提だったはずです。しかし、いわゆる科学技術は、良かれ悪しかれ、様々なことを可能にしてきました。温泉も例外ではありません。源泉を利用していながら「浴槽のお湯」≠「源泉のお湯」という不等式は、現在ではけっして珍しくないのです。 『広辞苑』の温泉の項目は、まず「源泉のお湯」と「浴槽のお湯」を区別することを教えてくれています。そして、言うまでもなく、浴槽のお湯が、源泉そのままか、あるいは可能な限りそれに近いものであること、これが本物の温泉であることの必要条件です。でも、事態はそんなに単純ではありません。 |
2.「温泉法」の規定 上述の『広辞苑』は、温泉の@の説明をさらに次のように続けています。「日本の温泉法では、溶存物質を1キログラム中1グラム以上含むか、泉温セ氏25度以上のものをいう」。温泉法、そんな法律があるのですね。調べてみましょう……。といっても、国会の開催ごとに新しい法律が追加され、また改正され、廃止されています。現行の日本の法律がどうなっているのか知りたいときにはどうすればいいのでしょう。 一般的にはぎょうせいという出版社が逐次発行している法務省大臣官房司法法制部編『現行日本法規』を見るのが最も分かりやすいでしょう。一定水準以上の図書館であれば閲覧できるはずです。で、探してみました。ありました。第77巻T 第44編 環境保護(1)、第二章 自然保護、第三節 温泉に、現行の「温泉法」(昭和二三年七月十日法律第百二十五号)が記載されています。 この温泉法の目的は、「温泉の保護」と「利用の適正」にあるようです(第一条)。温泉は自然の恵みですから、乱開発して枯渇させたりすることがないようにしないといけませんよね。そのため、温泉の掘削は都道府県知事の許可制になっています(第三条)。また、適正な利用も言うまでもないことです。温泉を公共の浴用や飲用に用いる場合も都道府県知事の許可制です(第十三条)。その際には、施設内の見やすい場所に温泉の成分等を掲示しないといけないことになっています(第十四条)。これらの条項を見る限り、ごく当然のことを明文化して法制化しただけのように見えます。 ところで、よく問題にされるのは温泉の定義です。温泉法によると、温泉とは、「地中から湧出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(天然ガスを除く)で、別表に掲げる温度又は物質を有するもの」ということになっています(第二条)。そこで、温泉法の最後の別表を見ると、さらに次のようになっています。(部分的に条文を簡略化している箇所もあります) 一 温度(温泉源から採取されるときの温度) 摂氏二十五度以上 ニ 物質(左に掲げるもののうち、いずれか一) 後者の物質については、18種類の「物質名」とそれぞれの「一キログラム中の含有量」が列挙してあります。ちなみに物質名は次の通りです。よく分からないものもありますね。
ただし、最初の1行目は物質名ではなく、「溶存物質」「総量一〇〇〇ミリグラム以上」となっていて、要するに何でもいいから1kg中に1g以上のものが溶け込んでいればよい、ということのようです。地中から湧き出るわけですから、化学の実験で使用する蒸留水のようなわけにはいきません。そりゃあ、何か溶け込んでいますよ。 さて、この定義のどこに問題があるのでしょうか。それは、この温度や物質があくまでも「温泉源から採取されるとき」のものという点です。『広辞苑』の区別で言えば、「源泉」に関する定義にすぎないのです。湧出後、温度は下がるでしょうし、また、含有物質、例えば多く挙げられている各種のイオンも、時間の経過とともに変化することは容易に予想がつきます。溶け込んでいた気体は揮発してなくなってしまうでしょう。 温泉法が公布された昭和20年代には、おそらく「浴槽のお湯」=「源泉のお湯」というのがあたりまえだったのでしょうね。源泉のすぐそばに浴槽があるとか、あるいは源泉の場所がまさに浴槽だったかもしれません。現在見られるように、湧出後に延々とパイプで送水するとか、浴槽に注がれる前にタンクに貯水されているとか、そういう事態は想定されていなかったに違いありません。 さらに、大きな浴槽を満たすのに源泉の湧出量だけでは十分でない場合には、加水や加温をして補う必要がありますし、経済効率を優先させれば、いわゆる銭湯がそうであるように、浴槽のお湯を循環させて利用することにもなるでしょう。その場合には有害な菌の増殖を防ぐために塩素等による消毒が必要になります。このようにして、加水、加温、循環、消毒を経た浴槽のお湯は、厳密に言えば、もはや源泉のお湯とは別のものになっていると見て間違いないのです。 「浴槽のお湯」≠「源泉のお湯」という温泉の実態が社会的に顕在化し、平成17年に温泉法の下位規定である「温泉法施行規則」が改正されました。施行規則の第六条は、温泉法第十四条の温泉成分等の掲示に関して掲載すべき項目を列挙していますが、新たに「加水」「加温」「循環(ろ過)」「入浴剤・消毒」の4つの項目が追加されました。つまり、これらを行っている場合には、その旨およびその理由を掲示しなければならないことになったわけです。 施行規則のこの改正のニュアンスは微妙です。「加水」「加温」「循環(ろ過)」「入浴剤・消毒」がいけないということではありません。それをしていたらちゃんと分かるように掲示しなさいというだけです。どうしてでしょうか。もし「加水」「加温」「循環(ろ過)」「入浴剤・消毒」を行ったものは温泉ではないということになったら、日本中のかなりの温泉が温泉ではなくなってしまうからです。業界の方は死活問題でしょう。 温泉法は、温泉の利用の適正を目的にしていました。場合によっては、加水、加温、循環(ろ過)、入浴剤・消毒、の措置をとることが利用の適正に適うことだってあるわけです。湧出した熱湯に入浴するわけにはいきませんから、適正な温度を保つために加水する。逆に温度が低い場合は加温する。極端な場合、消毒を怠ると循環給湯では死者が出ることもあります。これらはいずれも利用の適正のために必要な措置なのです。 しかし、そのような措置をとった浴槽のお湯は、源泉のお湯とは別のものになっていることもあります。そこで、源泉のお湯についてどういう手を加えているのかちゃんと分かるように掲示しなさい、というのが施行規則改正の趣旨なのです。塩素滴下の掲示を「安全管理が行き届いているなあ」と見て感心するか、「薬品漬けのようなお風呂には入りたくない」と考えるか、そのあとの判断は温泉利用者に委ねられているわけです。 温泉法施行規則の改正は不十分だ、という意見もあります。例えば、加水の掲示をするにしても、その割合についての掲示義務はありません。つまり、大量に水道水を加水した結果、源泉の割合が全体の1%以下になったとしても、「加水」で通用してしまうからです。そんな温泉はおそらく水道水の沸かし湯と変わらないと思いますけどね。これもアリです。 しかし、私個人としては、温泉法やその施行規則のさらなる規制強化には賛成できませんね。法的規制は必要最低限に止めるべきです。というのも、人間は、法的な規制がないと悪いことがやめられないというわけではないからです。社会の慣習や内面の倫理もあります。温泉業界はそこまで倫理的成熟度が低いとは思いません。それに、温泉利用者の側がもっと賢くなれば済む話だからです。 法的な規制に期待するのではなくて、自らが温泉の良し悪しを判断できるように、温泉経営者に匹敵するか、あるいはそれ以上の知識と見識を身につける必要があります。法律はあくまで人間が定めたものです。時代的社会的背景の変化によってその内容も変わります。温泉法施行規則の改正はその一例です。温泉の本質を探究するために、さらに一歩踏み込むことにしましょう。 |
3.科学的な説明(1) 「温泉源から採取されたときの温度がセ氏25度以上」「1kg中の溶存物質が1g以上」などの温泉の規定は、あくまでも人間が便宜上定めたものにすぎません。これでいくと温度がセ氏24.5度の場合や、溶存物質が0.98gの場合は温泉ではないことになります。しかし、そんな人間の勝手な規定とは無関係に、地中からは豊かな自然の恵みの温泉が湧き出ています。この温泉っていったい何なのでしょうか? 温泉の本質は何か。この問いにアプローチする1つの方法を自然科学が提供しています。「科学(=学問)とは何か」という厄介な議論は科学哲学に任せておくことにして、ここでは、温泉について、いわゆる科学的な説明を調べてみることにします。一例として、大河内正一『生きている温泉とは何か』(くまざさ出版社、2005年)を手掛かりにしましょう。大河内氏は法政大学工学部の教授です。といっても、私と面識があるわけではありませんけどね。(^^; この本は、同名の研究論文集の内容を極力分かりやすくしたものだそうで、全75ページ、一般向けの文字の大きい冊子本といった感じです。温泉がどういうものかを理解するためのポイントに触れることができそうです。第1章の「2 温泉の本質とは?」では、次のように書かれています。 実際の温泉は、図に示すように湧出後、温度、気圧などの物理化学的条件の変化に加え、温泉成分の化学反応等を通じて、成分の蒸発、沈殿などが起こり、化学種などが時々刻々と変化しているdynamic(動的)な存在なのです。【大河内正一『生きている温泉とは何か』 13ページ】素人ながらに想像できますよね。温泉は地下の深いところでできるわけで、その場所の温度や圧力は地表とはまったく異なっています。高温、高圧の条件下で、しかもその場所固有の様々な物質が温水の中に溶け込みます。それが地表に湧出するわけです。気圧が下がれば溶け込んでいた気体は揮発するでしょうし、地表の条件に適した状態で安定するまで様々な変化が起こることでしょう。 いわゆる湯の華はこの湧出後の変化の過程で析出された物質なのだそうです。なるほどね。要するに、温泉は湧出とともに動的に変化し始め、やがて安定した状態になると変化しなくなるというわけです。湧出時の不安定な水溶液から安定した水溶液への変化は、「エージングaging」と呼ばれます。agingは動詞ageの名詞化ですから、文字通り「歳をとること」「加齢」「老化」「経年変化」などの意味ですが、必ずしも「ダメになる」というニュアンスだけではありません。 agingには「熟成」という意味もあります。むしろ「良くなる」というニュアンスです。「歳をとること」がすなわち「ダメになる」ことだと言うと、中年以降の方々は、私も含めて、怒りますよね。(笑)価値評価のニュアンスを避けて、あえてカタカナで「エージング」と言うところに、客観的科学的な説明としての姿勢が現れています。「ダメになる」と考えるか、利用の適正としてはむしろ「良くなる」と考えるか、この評価は温泉の利用者各自が自分で判断することです。科学の立場は基本的に価値中立ですからね。 いずれにしても、温泉水は湧出とともに動的に変化しているわけです。この様々な変化のうち酸化還元反応に着目するのが大河内教授の発想です。酸化還元反応では、原子間、分子間で電子が移動します……。ヒイ〜ッ、もう止めましょうね。苦手だった高校の化学の授業のようです。細かい説明はすっ飛ばして、要するに、酸化還元電位の測定値を温泉水のエージングの指標にしよう、というのが大河内教授の提案です。こうすることによってエージングの度合いを数値化することができます。数値化して数学的処理を導入するのは科学的方法の王道です。この「酸化還元電位 Oxidation-Reduction Potential」はその頭文字をとって、通常ORPと呼ばれます。ふう〜っ。やっとORPに到着しました。 この方法によると、地中から湧出したばかりの源泉は、安定した平衡ORPに対して還元系にあり、時間経過とともに平衡ORPに近づいていくことが分かります。したがって、もしエージングを避けようとすれば、空気との接触を防ぎ、貯湯タンクの滞留時間を短くし、短時間で浴槽に注ぐ、などの配慮が必要になります。足元湧出や自家源泉が重宝され、源泉から浴槽までの距離が問われるのはこのような事情があるからです。 また、塩素等の殺菌剤を使用した循環式の温泉水のORPを測定すると、それはもはや源泉の特徴である還元系ではなくて、対極の酸化系に変わっていることが明らかになります。温泉水に塩素などの殺菌剤を使用することは「温泉を殺すことに等しい」と大河内教授は述べています。同様に、水道水を用いた家庭の浴槽も、水道水に含まれる塩素のために酸化系にあり、市販の入浴剤を加えても還元系にはならないことなどが明らかにされています。 このように見てくると、「源泉は新鮮さが命」ということのようですね。これを温泉の本質についての1つの科学的な示唆としましょう。ただし、これによって温泉の特質に触れることはできたとしても、まだその本質を明らかにしたことにはなりません。温泉とは何か。その中身が問題です。(つづく) |